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読書好きおじさんの小説紹介的雑文集

『1984年』ジョージ・オーウェル

なかなか仕事が忙しく、ゆっくり小説を読む時間がなかったんだけど、毎日チビチビと10数ページずつ読んで、読了。


ジョージ・オーウェル『1984年』


出張先なので、コインランドリーで洗濯しつつ待ち時間にブログ書く。


しかし、3週間くらいかけて読んだけど、意外と内容忘れないもんだね。というか小説を読むのって、そういうとこあって、読んでる途中というよりも読み終わってからジワジワと何かがやってくる感じってある。


本を読みたいけどなかなか最後まで読めない人って、完璧に読もうとしてる気がする。まあ、僕も最初はそうだったけど。笑。


でも、(まあ何でもそうだけど)なんだか途中でよくわかんなくなっちゃったけど、とりあえず読み進めてみると、読み終えた時には、意外とわかってたりする。


どうせ人の記憶は速攻で消えちゃうからね。3ページも読めば、最初のページの内容なんて忘れてる。いいすぎ?笑。


完璧な記憶なんてのは無くて、あるのは断片だし、曖昧だしね、そんなもんだから、気にせず本はバシバシ読むべし。


で、ジョージ・オーウェル『1984年』。これはまさに記憶の話。如何に人の記憶は曖昧か、なのに人は記憶で生きている。そんな不確実な人間の本質に迫る。


まあ、これはちょっと偏った読み方かもしれないけど、読み終わって何となく印象に残っていた記憶(曖昧な)が、それだった。


この『1984年』は、全体主義へのカウンター的な読み方が一般的なようだけど(勿論それもある)、僕は、途中からどうにもそういう風に読めなくなって、カウンターを合わせにいったところに、逆にカウンターくらっちゃったみたいにガツンと痛みを感じた。


なんか、誰かさんや何かさんにコントロールされずに、自分の意思で生きたいと思ってるけど、結局操り人形に過ぎないんだなと感じてしまう。それは本当に自分の意見なのか?と訊かれれば、いいえと言うしかない。はい、は嘘だ。


結局死ぬまで自問し考え続けるしかないということなんだなあ。


ジョージ・オーウェル『1984年』。正直きついお話だけど、読んでみて損はない小説だと思う。難しいかなと思って、ちょっと敬遠してたんだけど、全然読みやすいかったし。


おすすーめ。


『華氏451度』レイ・ブラッドベリ

この小説を、彼らに燃やされてしまう前に読むべし。


本を所持しているのがバレると、昇火士に燃やされてしまう。「焚書(ふんしょ)」というやつ。どういう本、ということではなく、全ての本。


読書が好きな人たちにしてみたら、地獄のような世界。この『華氏451度』では、いわゆる紙の本、ということになるのだろうけど、今は電子書籍というものもある。だったら電子書籍で読めばいいよね。


ということではなく、つまりは文字で表現されたものを読んではいけないということ。それは、考える、という人間にとって唯一と言ってもいいくらいの美点を人々から奪い去り、誰かさんがコントロールしやすくするため。誰だろ。これは陰謀だ。(最近僕は、妻に陰謀者というあだ名で呼ばれる。笑)


逸れました。とまあ、陰謀論的文明批判小説とも言える内容で、ブラッドベリの文明嫌い(だったらしい)が強く表れている。


とても面白い小説だし、文学的な評価も高く、是非オススメしたいとも思うんだけど、少し文明批判的要素が強すぎるように僕は感じて(あくまで僕は)、何というか、逆にコントロールされてる感じがしないでもなかった。


いや、間違いなく面白いんだけどもね。その強い部分が心を動かすのだろうし。でもね、これいいよって勧めはするけど、好きな小説は?って聞かれた時には出てはこないだろうなという感じ。


面白い小説と、好きな小説はやっぱり違うね。


にしても、少しずつSF小説に対する耐性が付いてきてるなという実感がジワジワと。どこにどんな出会いがあるか分からないからね、食わず嫌いはいけないよね。


さてと、次は何を読むか。(と言いつつ、併読しまくり。笑)

『スローターハウス5』カート・ヴォネガット・ジュニア

戦争では簡単に人が死ぬ。そういうものだ



そういうものだ、なんていう言葉で片付けられることではないんだけども、実際に戦争を体験し、見てきたヴォネガットにそう言われたら、正直何も言えん。残念だけども、想像力は体験を超えることはできないのだ。


あ、そうか。だから本を読むんだね。体験した気にはなれる。そして想像する。創造は模倣から、想像は体験からだね(うまいこと言ってる風)。


さて。カート・ヴォネガットは第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜になり、ドレスデンの無差別爆撃を実際に体験した。そしてこの『スローターハウス5』は、まさにその体験をもとに描いた自伝的な小説。


実は、この小説を読むまで、第二次世界大戦でのドイツのドレスデン爆撃の事実を知らなかった。そういうもの、なのかもしれないけども、やはりショッキング。悲惨すぎる。つらい。


てね、戦争について書こうとすると、こう重々しい雰囲気になりがちなんだけども、ヴォネガットの文章はからりと乾いていて軽い。で、それがまた逆に哀愁を漂わすっていうね。素晴らしいよね。


時間旅行したり、トラルファマドール星人が出てきたり、SFチックなんだけども、読んでいて全然と言っていいほどSの方(科学)を感じさせない。


ヴォネガットもSFと言われるのを嫌がったらしいので、僕もこれをSFだとは言わないことにする。そもそもSFが苦手な僕が読めたということは、そういうこと(もの、ではなく)だ。


でも、なんか最近SFに興味を持ち始めているような気もしないでもない。こないだの上田岳弘さんの小説(私の恋人)がきっかけかな?本屋さんに行くとSF小説のコーナーにチラッと目がいってしまうもんな。流されていくかもしれない。


ま、ジャンルとか関係なく楽しめれば何でもいいんだけども。


あ、あとヴォネガットといえば、あの作家さん。ヴォネガット好きだなぁとか考えてたら、なんかやっぱり、ああやっぱり僕はあの作家さんの小説が好きなんだなと、気付かされた。若い頃にハマって以来、最近は完全に避け気味だったんだけど。


そう。村上春樹氏ですね。


ああ、また読もうかな〜、なんて思い始めて居ります。あ、でも実家に帰らないとないなあ。帰った時でいいか。


引き続きカート・ヴォネガットいくか。


『私の恋人』上田岳弘

あなた方人類は、うだうだ言わず黙ってこの小説を読むべし。



とか言って、紛れもなく僕も人類であって、そうである以上、人類の歴史は知っておく必要があるのかもしれない。まあ、知らなくても生きていけるけども、知っておけばもう少し真っ当な生き方ができたりするのかな、と思ったりもする。


10万年前クロマニヨン人だった頃の記憶、第2次世界大戦でナチスに捕らえられたユダヤ人だった頃の記憶、そんな記憶を持つ存在がもし近くに居たら、是非話を聞いてみたい。


この上田岳弘さんの『私の恋人』という小説を読むと、そんな存在に出会うことができる。こちらの質問には答えてはくれないけども(そりゃそう)、話を聞くことは出来る。素晴らしいね。


そして、この小説は恋愛小説でもある。10万年前の私が思い描いていた「私の恋人」に、今の私がついに出逢う。途方もない恋愛。僕たち人類には無理ですね。欲が強すぎて。


そんな欲望から、自らが生み出した人工知能にのみこまれ支配されるのだ。あーあ。


ぼちぼち生きよ。


最近読んだ小説の中で一番かも。上田岳弘さんの他の小説も読んでみたい。だから早く文庫にして下さい。


『ぼくは落ち着きがない』長嶋有

これぞ「純文学」と言いたい。



まあ、文学とはなんぞやなんてのは、よくわかってはいないし、そもそも区別する必要もないのかもしれないけども。


でも、僕の頭の中では(他の人にとってはどうかは知らない)これこそが「純文学」であると認識された。というか、そう決めた。


だから、誰かに「純文学」ってなに?って聞かれたら、僕は「それは長嶋有さんだよ」という事にする。


よく長嶋有さんは、小説の中で自身の文学についての考えを登場人物を使って語る。その考え方に、いつも僕は、そうそう、と思う。自分では言葉で言い表せないことを、代弁してくれている。


以前に読んだ『問いのない答え』という作品でも、そういう場面があったのを覚えている。それはその後に様々な小説を読みながら、幾度となく頭に浮かんだ場面(言葉)でもある。


物語、ではなく一瞬(一定の期間)の場面の描写で自身を表現するのが長嶋有さんだと思っている(勝手な解釈)。適当にページを開いて、いきなりそこを読んでも面白い。いい意味で「クセ」がある。


起承転結がしっかりあって楽しめる小説もいいんだけども、例えば僕の場合は、その「起」の部分がイマイチだとすぐ読むのをやめてしまうタイプなので、もはやそういう小説は得意ではないとも言える。(たまには我慢して最後まで読むのもあるけども)


基本的に文体自体に魅力を感じれば、ストーリーはさほど気にしない。まあ、あくまで僕はそうだという話で、ワクワクドキドキのジェットコースター展開な小説が好きな人も居るだろうし、それは好みだと思う。


でも、そういう小説が好きな人にとっては長嶋有さんの小説はオススメはできない。笑。特に何かが起こるというわけではないので、退屈に感じるのではないかと思う。


結局のところ、人のオススメとか評価とか気にせず、自分が読みたいと思ったものをさっさと読めばいいのだということなのだ。


人がつまんないと言ったものを自分は面白いと思ったのなら、それは素晴らしいことではないですか。人と同じで安心する国、日本ジャパン。


かく言う僕も多分にそういうところ、ありますけど。



久々にブログ書いた。

『クエーサーと13番目の柱』阿部和重

特に意味はないのだけど、近頃は阿部和重さんと川上未映子さん夫婦の小説ばかり読んでいる。どちらの小説も好きだ。


二人とも、既成の概念だったり、世界で起こっている出来事を、とにかく疑う、というところが根底にあって、そこらへんが共通している気がする。



疑うということは信じるということでもある。逆に信じるということは疑うということでもある。


なんて別にどうでもいいけども、とにかく阿部和重さんの『クエーサーと13番目の柱』面白かった。


『ミステリアスセッティング』が好きなら、多分こっちも好きだろうと思う。


ダイアナ元妃の事故をアイドルのあれこれと絡めるなんて、この人にしか出来ないんじゃないだろうか。僕が知らないだけだろうか。


つまり、この『クエーサーと13番目の柱』という小説は、陰謀論と偶像崇拝がある意味の滑稽さを持って語られる奇跡的な物語だということ。


僕は奇跡という言葉があまり好きではない。のに使ってしまうのは、この小説がそんな力を持っているからなのだ(辻褄合わせ)。


奇跡は信じる人にしか起こらないのだ。そんな奇跡的なパラドックス。


ということで、まずこの『クエーサーと13番目の柱』を読んで、信じるということを疑ってみるといいかもしれない。


こんなブログを信用して本を買うと痛い目を見るよ。


『あこがれ』川上未映子

小学生って、なんだかくだらないんだけど面白いあだ名をつけるのが上手。ヘガティーって、そのまんまなんだけど、絶妙なセンス。



ヘガティーっていうのは、川上未映子さんの小説『あこがれ』の中の主人公の一人。まあ、つまり考えたのは川上さんなんだけども。何故ヘガティーなのかは読めばわかる。にしても、女の子でこのあだ名はちょっときつい。笑


だだ、僕は昔から特にあだ名とかを付けられないタイプだったので、ちょっと変わったあだ名とかにあこがれはある。ん、この小説「あこがれ」ってタイトルだった(偶然)。


全然そんな話ではないのだけれども。


それにしても、川上未映子さんの小説、どんどん丸みを帯びていっている気がする。『わたくし率〜』とか『乳と卵』はとんがり具合がなかなかで、またそれが癖になる感じではあったんだけども、『すべて真夜中の恋人たち』あたりから、優しさが刺々しさを包みだして、『あこがれ』では、もはや優しい小説に。でも、ああ川上未映子だ、という台詞や描写も感じられて、よし。


川上未映子さんの小説は、読書というのは基本的に自分との対話だということを、思い出させてくれる。まあ、それは読書だけではないけども。


何故あなたはその小説が嫌いなのですか。