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読書好きおじさんの小説紹介的雑文集

『幻影の書』ポールオースター


『幻影の書』の主人公ジンマーは、絶望の中、ヘクター・マンという喜劇俳優の短編映画に偶然(偶然というのが大事な要素ね)出会う。そして生きていく目的を見いだす。


僕は特に人生に絶望するほどの体験はしたことがないけれども(記憶から消してしまっただけかもしれない)、それなりに落ち込み、自分を見失うような時も無くはない。


やはり生きていくには、何か目的や目標のようなものが必要なのかもしれないな、と思う。それが僕にとっては読書なのかな(今は)。そう考えると、ジンマーがヘクター・マンと出会ったように、僕はポールオースターと出会ったとも言える。


生きる目的を与えてくれたポールオースターに感謝。大袈裟かな。笑


でもやっぱり面白いよ、ポールオースターの小説は。ニューヨーク三部作も好きだけど、『ムーンパレス』や、この『幻影の書』のような、何もかも失って絶望的な境遇の中に射す偶然という光、みたいな物語が特に好き。


他にも、物語中物語(オースターお得意)だったり、何人かの人物の物語が重なりあったりと、ストーリーに重厚感があるところもいいよね。そういう意味では、『オラクルナイト』が特に良かったかな。


何にしてもポールオースターの小説は、何度も読みたくなるし、実際また読み返すと違う良さが感じられて面白いな、と思う。


まだ作品全ては読めていないけども、いずれ読んだら自分なりにまとめたいな。ま、いつになるかはわからないけど。僕は文庫で読みたい人なんで、早く文庫化してほしいなと切に願ってます。


『ムーンパレス』ポールオースター


ポールオースターといえばコレ。という人が結構多い気がする。



ポールオースターの作品の中で、僕が最初に読んだのは『幽霊たち』で、その不思議な世界に戸惑いながらも読了し、他も読んでみようと手に取ったのが、この『ムーンパレス』だったと思う。(少し曖昧な記憶。『偶然の音楽』だったかも)


でも、読み始めたものの、その時は途中で投げ出してしまった。別に、この小説が読みづらいとかつまらないとかそういうことではなく、たまたま気分に合わなかっただけだと思う。やはり小説は読むタイミングが重要なのだ。


ということで、結構長い間ほったらかしにされていた『ムーンパレス』。今回はバッチリはまって一気に読了。いやはや、こんなに素晴らしい小説だったとは。。タイミングとか言って、途中で投げ出してしまう人間の気持ちがわからない。笑

主人公のマーコはオースター自身かも

この小説は、マーコ・フォッグという青年の、いわば青春成長物語。語り手はマーコ自身で、思い出を語る回顧録形式。回顧録になっているために、絶望的な物語なんだけども、そこに希望も見出せる。


また、ポールオースターはセルバンデスの『ドン・キホーテ』がお気に入りらしいんだけども(どこかの記事で読んだ)、『ムーンパレス』の中で、マーコもそれが好きだと言っていたり、叔父から譲られた沢山の本を読み漁るという共通点もあったり、ある意味マーコはオースターで、これは自伝的な小説でもあるのかな、と感じたりもする。


登場人物たちもとても魅力的で、皆がマーコに愛情を向ける。オースターのマーコに対する愛情がそのまま、読んでいる僕らにも伝わってくるようだった。僕的には、特に終盤のある場面が印象的で、マーコに対して母性とも言えるような感情(男なのでよく分かってないけども何となく)を抱いてしまった。

偶然が動かす世界

この『ムーンパレス』は、ポールオースター自身の作品の中で「唯一のコメディ」だと本人は言っていて、確かに偶然の出来事が多くある意味喜劇的な感もあって、それも頷けるという気もしないではない
。けれども、世界は偶然によって成り立っているのであって、それはつまり、人は偶然によって生かされているとも言える。そして、登場人物たちのマーコへ向けた愛情を考えると、偶然を生み出すのもまた人であるのかもしれない。そういった意味でこの『ムーンパレス』は、偶然が動かす世界というものが、何も不思議なことではなく、至極真っ当なんだと感じさせられる小説でもあった。



僕は、あまりにも現実離れしたファンタジーやSFってあまり得意ではないんだけども、地面から少しだけ浮いたような、土着感はあるけど幻想的な、そんな微妙な感触の物語が僕は好きであると、改めて確認した。(読んでる人にしたら知ったこっちゃないだろうけども。笑)


まあ結局、読み終えてみて、僕的にもポールオースターといえば(全作は読んでいないけども)コレ、となった。というか、むしろ今まで読んできた中でこの『ムーンパレス』が一番好きな小説かもしれない。そう感じるほど、僕の人生において印象的な小説となった。


『バルセロナの印象』長嶋有



旅行に行くのは結構好き。でも、行きたいなあと思う場所はたくさんあっても、いわゆる時間とかお金とかいうやつの問題があってなかなか難しい。


まあそうは言っても、家族旅行だとか新婚旅行だとか、それなりに行ってはいるわけで、多少は思い出というものもある。


旅行に行くときは、というか行く前や向かっているときは、例えば、ここの建物が見たいだとか、そこの美術館に行きたいだとか、あそこのあれが食べたいだとか、それなりに目的みたいなものを持っているし、到着して実際にその場面に出くわせば、うわあっと感動もする。


でも、時が過ぎて、その旅行についてふと思い出したりするのは、その建物や風景だとか食べものではなく(それもあるけども)、その時一緒に行った人のさり気ない表情だったり、仕草だったりする。


もちろんその表情や仕草の背景には、旅行に来ているという高揚感やら何やらがあって、それと重なって記憶として強く残っているのだろうけども、その一瞬の場面の中心は、やはり人だという気がする。


あんなに感動したのにね。記憶はちょっとズレて残る。でもそれがいいという気もする。


長嶋有さんの『バルセロナの印象』(タンノイのエジンバラという短編集に収録)という短編を読んでいて、なんとなーくそんな事を考えましたとさ。


『猛スピードで母は』長嶋有


方言、というものがある。僕の住む岩手県にも、勿論それはあって、周囲の人たちは当然のように、いわゆる「標準語」ではない表現を使う。


まあ、標準なんていうのは誰かが勝手に決めたものであって、そうでない言葉を話す僕らにとっての標準は、「方言」のほうだ。どっちでもいいんだけども。


でも、まだ狭い世界で生きている子供にとっては、やはり親の話す言葉が標準語だと思う。別に違和は感じていない(いなかった)はず。


その自分の話す方言が、どうやら標準語ではないらしいと気付く瞬間が、成長していく中でやはり何度かあって(今の時代は少ないかもしれない)、その瞬間の気持ちを、長嶋有さんの『猛スピードで母は』という小説の中で思い出させてくれた場面があった。

いきなり炊かずにしばらく置いておくことを「米をうるかす」といった。「うるかす」という言葉が標準語でないと知ったとき、慎はずいぶんうろたえた。自分の過ごしたある時間をまるごと否定された気がしたのだ。(引用)


ああ、よく分かるなあと。気付いた後は、とても意識的になってしまって、その言葉を使わなくなっていったのを覚えている。子供は敏感。大人は鈍感。と、一概には言えませんが。


というか、岩手でも「うるかす」という表現をするけども、これ、標準語では何というのだろう。と、疑問を抱くも、別に調べるわけでもなく放っておく。


それにしても、長嶋有さんの小説は、別に最初から読まなくてもいいんじゃないだろうか、なんて感じたりもする。かゆいところに手が届くような場面の描写が随所にあって、それだけで楽しめたりもする。


無二ですね。この才能は。

『眠れる美女』川端康成



仕事中にふと窓の外を見たら、目の前の公園のベンチに、お爺ちゃんとお婆ちゃんが座っていた。二人がけのベンチが二つ、それぞれに座っていて、その夫婦の微妙な距離感がなんとも微笑ましかった。


と、二人が夫婦だと勝手に決めつけたけれど、もしかしたらただの他人同士で、実は、お爺ちゃんはお婆ちゃんとお近づきになろうとしているのかもしれなかった。


まあ、それは違うだろうけども、もし自分がお爺ちゃんになっても、知らぬ女性に声をかけ、お近づきになりたいなどと思うのだろうか、ということをふと考えた。勿論、そういう魅力的な女性に出会った場合の話だけれど、多分そういう気持ちはあるだろうなと思う。


ちょうど川端康成『眠れる美女』を読んでいたもんで、そんなことを考えてしまったみたい。


僕がお爺ちゃんになって、実際この小説のようなことを経験できるとして、どんな感情を抱くのかは、正直今は分からないし、江口老人の感情も分からない。全く分からないでもないけども。


なんとなく子供の頃と比べて、死というものを少しづつ受け入れ始めている感覚を覚える時があって、これから徐々にその受け入れ態勢は整っていくのだろうな、と感じたりもする。でも、それは想像にすぎなくて、やっぱり歳をとってみないと分からない。


まあ、この『眠れる美女』のような状況になるなんてことはあり得ないけども。


むしろ今そうなったら、と想像してしまうのが本当のところ。笑。でも男ならみなそうだろう。


以前読んだのはいつだったか覚えていないけれど、この『眠れる美女』という小説は、歳を重ねるたびに読みたいなと思う。自分が男としてどう感じるかを、客観的に観察していきたい。


何にしても一つ言えるのは、


『男を「魔界」にいざないゆくのは女体のようである』(引用)


ということである。


『かけら』青山七恵


いきなりだけれど、僕にもいとこがいる。最近会ったのはいつだったか。何年かに一度、というくらいの頻度でしか会うことがないので、その度いとこの変化に驚き、何を話していいのか分からず、うろたえる。


そして、また数年間会うことがなく、次会うときもきっと、同じようにうろたえるのだと思う。今日は、青山七恵さんの短編集『かけら』の中の『山猫』という短編を読んでいて、ふと、いとこは今何をしているだろうか、そういえばもう社会人になっているのかもしれない、などと思いを馳せ、久しぶりに会ってみたいな、という気になった。


青山さんの小説は、初めて読んだけれど、僕の好みだった。落ち着いた文体で、微細な心の変化を描く。読み始めと読後の自分の気持ちの変化に心地よさを感じた。


表題作の『かけら』『欅の部屋』も含め、3作品とも良かった。


『かけら』は、川端康成賞受賞作。


『オテルモル』栗田有起



夢をよく見る人とそうでない人がいるけれども、どう違うのだろうか。僕はあまり見ない。妻はよく見るようで、起きがけに、見た夢の話をすることも少なくない。


あまり見ない僕からすると、何でそこまで覚えているんだろう、ってちょっと訝しんだりもする。結構細かいところまで覚えているんだもの。でも、そういう人もいるのだなと受け入れて、話を聞いている。


それにしても本当に、夢って支離滅裂で、滅茶苦茶なんだけど、それが何かを示唆しているのだろうな、というのは感じる。


小説のようだ。と、栗田有起さんの『オテルモル』という小説を読んでいて、ふと思った。


小説の中で、


「悪夢が悪魔であるのはもちろんだけれど、悪魔のいいなりにはならないと強い意志を持ちつづけていれば、夢はこれ以上ない遊び場になりえるのではないかと思った。現実には持つことのできない自由を、手にすることもできるのではないか。」


とあって、これは小説にも云えることなのではないか、と感じた。そして、その後に、


「夢がその持ち主だけのものでないとしたら、他人が、この夢おもしろいなあと思うことは、当人を悪夢から遠ざける助けになるかもしれない」


と、続き、当人とあるけれども、これは他人も当人もと言ってもいいのかなと。勝手な解釈をした。


まだ栗田さんの作品はそれほど読んでいないけれども、読了したものは、ほぼ読後感は爽快で前向きになったような気がする。悪夢から遠ざける助けになっている。


ただ、その辺は一貫している(とりあえず読んだものについて云えば)けれども、ちょっと感じたのは、栗田さんの作品は、短編(もしくは中編)のほうがキレがあっていいんじゃないかなってこと。勿論、長編も面白いんだけどね。短めの小説のほうがテンポよく、スキッとした気持ち良さがある気がする。


ま、好みですけども。


何はともあれ、夢見ましょうよ。なかなか夢見ないなあ、なんて人は小説読みましょうよ。ということですね。